江戸切子の製法と技術のルーツ

江戸切子の製法と技術のルーツ現在の江戸切子の製法や技術のルーツは、「九州の長崎から伝わった」とされる説が通説でしたが、

「中国大陸から伝わった」とされる説が現在に至っては濃厚であると伝えられています。

1750年にオランダから長崎にもたらされたガラスは「ソーダ石灰ガラス」という、当時、西洋(ヨーロッパ)では、ガラスの原料の主流として使用されていたものでした。

変わって、江戸時代の江戸のガラスの原料は、「鉛ガラス」を使用していました。

当時、鉛ガラスは中国大陸で使用されていたもので、江戸のガラスの製法は、中国から伝来したと言う説が、現在では濃厚になりました。

これらの背景には、当時、幕府や政府が行った鎖国令や輸入の制限や閲覧出来る書物の制限などの政策があったため、同じ日本である長崎と江戸でも、伝わりにくかったのではないかと考えられています。

時は流れて、明治時代にさしかかると、日本にも本格的に産業革命が始まります。

産業革命が始まると、当時まで禁止であった様々な法律が解禁されることになって行きます。

これは、ガラスの分野に関しても、例外ではありませんでした。

この後、薩摩から多くの職人が江戸や大阪に流れ着き、薩摩のガラスの技法・技術が伝わって行くことになります。

江戸切子を削っていた「金剛砂」とは何か?

明治時代まで江戸切子職人たちは、「金剛砂(こんごうしゃ)」と呼ばれる、粒目が細かく、硬い砂を水に溶いて、

それをガラス面に付着させ、棒で削って切子ガラスを制作していました。

江戸切子の創始者である「皆川(加賀屋)久兵衛」も、この手法で切子を制作していました。

江戸時代に来訪した黒船の提督・ペリーは、この久兵衛の作ったガラスの瓶を見て、その出来栄えに大変、驚いたという話があります。

当時の切子の制作は、全て手で削っていたので、かなりの時間と根気が必要で、切子を1つ作るのに大変な労力がかかっていました。

しかし、明治時代に入ると、様々な法律が解禁され、その影響で海外との国交も開化し、それまで鎖国であった日本が開国を迎えることとなって行きます。

その結果、この当時、カットガラスの製法で世界で1番技術が進んでいた英国(イギリス)から「エマニエル・ホープトマン」という、ガラス技師を日本は迎えることとなります。

このホープトマンは、日本に初めてグラインダー(円盤自動研磨機)を伝え、日本のガラスの文化を大きく変えた人物でもあります。

さらにこの頃、薩摩からも職人が大阪や江戸に流れ着いたのも重なり、江戸のガラスの技術は飛躍的に進歩して行くこととなるのです。

現在に至っては、電気を使用した回転力と力のある電動式のグラインダーを使用してカットしてますので、1度に容易く、様々なデザインの製品が作れるようになっています。

現在の職人たちの工房も、久兵衛たちの頃と代わり、東京の江東区のを中心に葛飾区・江戸川区などを拠点として、他の県や地域にまで、伸びて行っています。

そして、今や日本が世界に誇れる文化の1つとして、江戸切子の職人たちは、日々、江戸切子を発信し続けています。

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