江戸切子の由来と江戸切子とは?

「江戸切子」と呼ばれるガラスの由来の歴史は、もっとも古く、そして、もっとも長いと伝えられています。

1750年頃、日本にある1隻の船が流れ着きました。

その船は、遠く西洋(ヨーロッパ)のポルトガルという国からはるばる、日本の長崎に着くことになります。

この時、長崎を支配していた殿様の「大村氏」が、長崎の港付近にポルトガル人の援助受けて、ガラス工場を建て、ガラスの製品を日本で初めてつくりました。

そして、この時に日本に初めてガラス(びーどろ)が伝わります。

江戸切子の由来と江戸切子とは?

それから数百年が経った1750年、ようやく日本大陸の中程に位置する商都・大阪にも、長崎の商人「久米清兵衛」により、さらに進歩した長崎のガラス作りの製法が伝わります。

これが大阪ガラスの始まりであったと言われています。

そして1770年に、ようやく江戸にもガラスの製造が本格的に開始されます。

ただ、この江戸に伝わったガラスの製法は、中国大陸から伝わった技法と言われており、長崎に伝わった技法とは異なる技法であったといいます。

1800年代に入ると、現在の東京・日本橋で、細長い金属製の線を丸く曲げて、その中にガラス製のレンズを差し込んだ、「ヒモ付きの金属メガネ」を製造・販売していた店がありました。

この店の名前を「加賀屋」と言い、この加賀屋で働く者の中に「皆川久兵衛」という人物がいました。

長崎より大阪に伝わったガラスの製法が、どうしても知りたかった加賀屋は、「皆川久兵衛」を、大阪ガラスの「久米清兵衛」へ、弟子入りさせることにします。

そうして、しばらく年月は流れ、ようやく皆川久兵衛が修行を終えて加賀屋に帰ってくることになります。

加賀屋に皆川久兵衛が戻って、10年経ったある日のこと、皆川久兵衛は加賀屋から独立して自分の店が持ちたいと加賀屋に願い出ます。

そして加賀屋の許しを得た、皆川久兵衛は、自らの店を加賀屋と同じ日本橋に構え、ガラス製品の製造販売を始めます。

この時、皆川久兵衛は、自らが大阪で学んだガラスの製法に加え、ガラスに傷のような模様を入れてガラスの器を販売していたそうです。

これが、現代の日本に伝わる「江戸切子」の始まりであったと言われています。

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